こうして勢力を拡大した檀石槐は、自らの領有する土地を東・中・西の三部に分けた。右北平から東方は遼東の夫余や濊貊(わいはく)と接するあたりまでを東部とした。そこには二十余の邑があり、その地の大人は、弥加(びか)・闕機(けつき)・素利(そり)・槐頭(かいとう)と呼ばれる者たちであった。右北平から西方の上谷ににいたるまでを中部とした。そこには十余の邑があり、その地の大人は、柯最(かさい)・闕居(けつきょ)・慕容(ぼよう)などと呼ばれる者たちで、彼らは大帥(たいすい 総指揮官)でもあった。上谷から西方の敦煌まで、西方の烏孫と接する所までを西部とした。そこには二十余の邑があり、その地の大人は、置鞬落羅(ちけんらくら)・日律推演(じつりつすいえん)・宴茘游(えんれいゆう)などと呼ばれる者たちで、彼らは大帥であり、みな檀石槐の支配を受けていた。
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霊帝の時代になると、彼らは幽州、?州の二州で盛んに略奪をおこない、国境地帯の諸郡は、鮮卑からひどい損害を受けない年はなかった。
熹平六年(177年)、護烏丸校尉の夏育(かいく)、破鮮卑中郎将の田晏(でんあん)、匈奴中郎将の臧旻(そうびん)を派遣し、南単于の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、三つに分かれて並行して進み、二千余里を突っ切って遠征を行った。檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った、臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は十分の一にすぎなかった。このころ、鮮卑の人口が増え農耕牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなり、川魚を獲って食料とした。